書鑑賞の楽しみ

 書はわからない、書の鑑賞は難しいという声をよく耳にします。その原因の一つに、書とは美しい筆跡をさす語であるとの思い込みがなされていることがあるようです。もちろん、美しく妙味が発揮された書は少なくありませんが、それとは逆に、美しさや妙味を押し殺した書も少なくないのです。そして、前者は鑑賞しやすいのに対し、後者はつかみどころがわからず、鑑賞が難しいということになります。

 美しさの要素として始めに挙げられるのは、碁盤の目のように整然として付された配置です。これは一画一画の配置であり、字形の整いであり、一字一字の位置どりによって成ります。

 次に挙げるべきは、線の冴えと伸びでしょう。この美しさは筆さばきならではの表現性といえましょう。ちなみに、これらの美しさは、富士山を見て誰もが美しいと感じるように、反射的に受け止められるものです。また、儒教に基づく需家(じゅか)精神にかなうものです。

 これに対して、美しさや妙味を押し殺した書は、多く老荘(ろうそう)思想に基づく道家(どうか)思想によっています。漢詩や山水画の多くは、この老荘思想によって深山(しんざん)幽谷(ゆうこく)隠棲(いんせい)することを理想として描いたもので、何物にもかえがたい天地の崇高さを表すことで共通します。

 書においては、字体に篆書(てんしょ)隷書(れいしょ)楷書(かいしょ)行書(ぎょうしょ)草書(そうしょ)の五体があって、表現の方法は一様ではありませんが、道家の書は一画一画の間隔をあえて揃えず、字形を整えず、位置どりもその時次第の自由奔放です。しかも、運筆(うんぴつ)の力をうちに込めよう、込めようとしています。表現の意図があらわになることを、ことさらに包み隠そうとしているのですから、鑑賞者が反射的にこれを受け止めるのが難しいのは当然のことです。

 では、どうすればこの難物を鑑賞できるようになるのか。その糸口は、儒家的表現に背を向けている彼らも、はじめは必ず儒家的表現から入っていることにあります。つまり、儒家的表現性を知りながらそれにあきたらず、常にそれに逆であろうと努めたものであることです。言い換えると、単調な儒家的拘束に縛られることを避け、異なる次元を見つけ出し、自己を余すところなく、そこに注ぎ込もうとしているのです。

 従って、何を見つけ出し、何を注ぎ込もうとしたのかを知らなければ、彼らの作品の真価を理解すことはできません。そのためには、学ばなければどうにもならないということになります。

 ところで、きび美ミュージアムの書は、江戸時代の僧、(じゃく)(ごん)(りょう)(かん)が中心になります。僧侶はもとより仏学(ぶつがく)の人ですが、本来的に仏教と老荘思想とは考えかたが近く、しかも中国において、仏教のサンスクリットは老荘思想の語彙や考えかたを応用して漢訳されました。

 さらに、日本の禅は仏教の中に積極的に老荘思想をとり込みました。禅の寺院の自然と解けあった荘重(そうちょう)さやみごとな庭園は、老荘思想に基づくものです。つまり、寂厳と良寛の書は仏教精神では説明できず、老荘の道家精神を用いることによってこそ説明が可能になります。

 なかんずく、道家精神においても、寂厳と良寛の書は鑑賞が難しいものです。それだけにこの二者の書がわかるようになれば、もうこわいものはありません。書の見かたの手順を着実に踏まえつつ、幅広く書の鑑賞を楽しむことにしましょう。


魚住和晃(うおずみ かずあき)略歴
1946年三重県生まれ。東京教育大学芸術学科卒業。同大学院教育学研究科修士課程修了。2000年「張裕釗書法における理念形成と形象の研究」で神戸大学文学博士。
神戸大学国際文化学部教授、同大学院総合人間科学研究科教授を経て、2010年定年退任。現在、神戸大学名誉教授、天津大学客員教授。安田女子大学客員教授。中国西泠印社名誉社員。書家。