きび美随想

書鑑賞の楽しみ

書はわからない、書の鑑賞は難しいという声をよく耳にします。その原因の一つに、書とは美しい筆跡をさす語であるとの思い込みがなされていることがあるようです。もちろん、美しく妙味が発揮された書は少なくありませんが、それとは逆に、美しさや妙味を押し殺した書も少なくないのです。そして、前者は鑑賞しやすいのに対し、後者はつかみどころがわからず、鑑賞が難しいということになります。

美しさの要素として始めに挙げられるのは、碁盤の目のように整然として付された配置です。これは一画一画の配置であり、字形の整いであり、一字一字の位置どりによって成ります。

館長 魚住和晃

きび美stories
~文化財のバトンタッチ~

2021年4月29日、倉敷美観地区の一画で、コンパクトながら、吉備文化のエッセンスの詰まった『きび美ミュージアム』が、小さな産声を上げました。

「吉備と出会う 吉備に恋する」をコンセプトにしたこの美術館の開設は、実は私の父である山田眞常やまだしんじょう(1914~2000)のライフワークであり、宿願でもありました。

山田は大正3年(1914年)に現在の倉敷市平田に生まれ、2才の時に生みの母を、15才の時に父を亡くし、兄や姉も相継いで病没。そうした不幸を経験し、自身と周囲の人々の「安心立命」を願って神職を志し、國學院大學に進みました。

大学在学中より、考古学や美術刀剣に関心を持つようになり、考古学はその権威であった樋口清之教授より薫陶を受け、刀剣は後に日本美術刀剣保存協会会長を務めた本間順治博士に学んで、備前刀・備中刀の蒐集を始めるようになりました。卒業後、官幣かんぺい大社たいしゃ日枝ひえ神社じんじゃの主典を務めますが、兵役の招集によって中断し、終戦後31才で帰郷。農地解放により、地主であった生家にはわずかな田畑しか残らず、昭和37年に倉敷土地建物(株)を興すまで、暫くは慣れない農業で生計を立てます。

その一方で、郷土の文化に対する強い愛着に衝き動かされ、時間を見つけては、ラビットというスクーターに乗って、酒津~総社~高梁~足守~北房~と、県下一円を精力的に独りで走り回り、遺跡・旧家・コレクターを巡って情報を集め、現地でフィールドワークをし、実際に「モノ」を手に取って見て、眠れる文化財の発掘と蒐集に情熱を傾けました。

古代より、大和や出雲に勝るとも劣らぬ先進的な文化が栄え、多くの古墳群や遺跡が残る「吉備きびのくに」に強い愛着とロマンを抱き、その遺跡を探訪しながら、そうした古代の文化財を集めていたコレクター達や、その子孫の方から、弥生土器や古墳からの出土品等をまとめて譲り受けていきます。

そして、昭和31年に一つの大きな転機が訪れます。それは、観龍寺(倉敷市阿知)における遺墨展で、じゃくごんの書と出会ったことでした。山田は「雷に打たれたような感銘」を受けると直ちに「これら寂厳の遺墨を倉敷に定着させ、郷土人の心のよりどころにしたい」と決意しました。

この寂厳遺墨展は、元・倉敷紡績の社長、神社柳吉かんじゃりゅうきち氏(神戸市在住)のコレクションを主とするもので、以後、神社氏と交渉を重ね、昭和44年にそのコレクションの殆ど(約40点)を譲り受け、神戸から倉敷に里帰りさせました。神社氏は生前、「自分が寂厳を集めるようになったのは、大原孫三郎氏の『寂厳は良いから集めなさい』というアドバイスがきっかけだった」と話されていたようです。その寂厳の書の中でも名品を選りすぐった神社コレクションを核とし、次々と蒐集を充実させ、今では百点を超えるコレクションとなりました。

そうした蒐集活動と並行して、昭和53年には、元・倉敷市文化連盟会長の赤木元蔵あかぎもとぞう氏や宝島寺(倉敷市連島)と協力し、『寂厳顕彰会』を結成。自ら顧問となり、以後、毎年宝島寺で定期的に開催される遺墨展に寂厳の書跡を出品公開し、新聞紙上等で顕彰活動に努めました。

次いで、山田がその画業に惚れ込んでいた郷土ゆかりの3人の画家たち、すなわち、寺松てらまつくに太郎たろう(洋画・日本画)の作品と資料は、そのお孫さんの寺松孝氏から京都の寺松家に残っていたものすべてを、次に木村きむら丈夫じょうふ(日本画)の作品は、ご本人生前中よりその打診があり、没後に奥様の木村和子さんから京都のアトリエに残されていたもの(出展作品以外は描き下ろし状態)すべてを、さらに河原修平かわはらしゅうへい(洋画)の作品は、画家ご本人が自分の画業が常時展観される美術館の開設を強く希望され、次いでそれを引き継いだ奥様の河原俊子さんの懇請により、河原家に残すべき十数点を除くすべての作品を次々と譲り受けました。

これらすべては、対価をお支払いして入手したものではありますが、大切な作品群を散逸させることなく、まとまった形で保存し、いずれは公開してほしいという画家とその家族の切なる願いと夢が山田にバトンタッチされ、その実現を託されたということでもありました。

このようにして、弥生時代から現代にわたる、幅広いジャンルの「吉備国」ゆかりの文化財が、山田のもとに集うことになりました。前世代の蒐集家が古代吉備に憧憬を抱いて集めた考古遺物の数々、また神社氏を始め、文化に造詣の深い先達諸氏が高く評価し珍重した寂厳や良寛りょうかんの書跡群、さらに、画家達の命をかけた画業の成果と公開の夢を、濃密かつ、まとまった形で自分にバトンタッチされることになったのです。そこにおいて、山田の文化財に対する愛着と、それらを公開していくという使命感と情熱が、一層増し加わっていったように思われてなりません。

山田は「生涯をかけて蒐集してきた文化財ではあるが、個人として秘蔵していたのでは“死蔵”になってしまい、散逸の恐れもある。文化財は財団法人を設立し、美術館において保存、長く後世に伝えるとともに、広く一般に公開すべきであり、その実現こそが自身のライフワークである」と考え、昭和50年代より20数年間にわたって「良寛・寂厳記念館(仮称)」の構想をあたためていました。しかし、志半ばにして、平成12年(2000年)に満86才で病没しました。

そのため、これら郷土ゆかりの貴重な文化財は、不肖の娘であり、「門前の小僧」レベルの私にバトンタッチされました。以後、臼井洋輔先生(前きび美ミュージアム館長)と魚住和晃先生(現・館長)のご指導を頂きながら、約20年をかけて収蔵品の調査をし、美術館の構想を練り直して、この度、何とか皆様にお目にかけることができる運びとなりました。

今後さらに、これらの文化財を次の世代に繋いでゆけますよう、郷土の皆様方からの多大なるご支援をお願い申し上げます。

一般財団法人 倉敷山田コレクション
代表理事 山田 泰子