山田 眞常【やまだ しんじょう】(1914-2000)
大正3年(1914年)、都窪郡万寿村平田(現 倉敷市平田)に生まれ、2才の時に生みの母を、15才の時に父を亡くし、兄や姉も相継いで病没。
そうした不幸を経験し、自身や周囲の人々の安心立命のために神職を志し、國學院大學に進む。
國學院大學在学中より、考古学や美術刀剣に関心を持ち、考古学は権威であった樋口清之教授より薫陶を受け、刀剣は後に日本美術刀剣保存協会会長を務めた本間順治博士に学んで、刀剣の蒐集を始める。
國學院大學卒業後、国会議事堂前の官幣大社 日枝神社(東京・永田町)の主典を務め、神職を志すも兵役の招集によって中断。
昭和19年8月に応召し、昭和20年、終戦後31才で帰郷。農地改革による農地解放のため、地主であった生家には、わずかな田畑しか残らなかった。
慣れない農耕を行い、食糧事情がよくなるまでの10年間は農業で生計を立てる。その間、戦時に被服廠によって接収されていた土地の返還を求める交渉を行い、それぞれの小作人に土地を戻す世話をする。そして、そこで培われた経験が後に不動産業を興すきっかけとなる。
一方で、郷土の「吉備国」には古代より第一級の文化があり、優れた文化人を多く輩出してきたことに強い愛着を感じるようになる。昭和30年前後より時間を見つけてはラビットというスクーターに乗って県下一円を精力的に走り回り、遺跡、旧家、数寄者を巡って情報を集め、実際に「モノ」を手に取って見、眠れる文化財の発掘に情熱を傾け、徐々に蒐集を増やしていった。
昭和31年、観龍寺(倉敷市阿知)における寂厳(江戸時代 四大書僧の一人)遺墨展を見て、雷に打たれたような感銘を受けると、直ちに「これら寂厳の遺墨を倉敷に定着させ、郷土人の心のよりどころにしたい」と強く決意する。これらの展観は、元・倉敷紡績社長 神社柳吉氏のコレクションを主とするものであった。
昭和37年、48才の時に「倉敷土地建物株式会社」を設立。以後、不動産業と建設業に携わる。折しも世の中は高度経済成長期にあたり、水島工業地帯への企業誘致、また倉敷市中心部の開発においては、ダイエーやコカ・コーラの誘致を始め、銀行、病院、マンション用地などの斡旋や、住宅団地の継続的な開発分譲等を通して、地元の振興、まちづくりに積極的に関わる。
昭和44年、神社氏が所蔵するコレクションの殆どを譲り受け、現在の山田コレクションの重要な基盤が出来る。
昭和50年 、 美術館の建設を目指して、倉敷美観地区内に約300坪の土地 ( 現在の『くらしき宵待ちGARDEN』の敷地 ) を取得。細い路地にしか面していないため、当時は利用が制限される。以後、倉敷市にも協力を求めながら、路地の拡幅や新たな進入路の接続を試みるも、容易に果たすことができなかった。
昭和53年6月、元・倉敷市文化連盟会長の赤木元蔵氏らと協力し、寂厳顕彰会を結成、自ら顧問となる。顕彰会は現在も定期的に遺墨展を宝島寺(倉敷市連島)で開催している。
昭和55年には、所蔵する刀剣のうち、日本にただ一振りしか現存しない平安時代後期の備中刀「太刀・宗貞」が、岡山県重要文化財の指定を受ける。
当時、日本経済はバブルに向かっていたが、山田は逆に、これ以上物質文化を追求することの空しさを感じ始めていた。むしろ、郷土吉備に伝わる文化財から感得出来る芸術性、精神性こそ心を養うものであると、改めて認識を深めていった。やがて、倉敷にゆかりのある良寛・寂厳の書について、その心境の高さを評価するようになり、そうした“精神文化”を全国に向けて発信すべきことを新聞紙上などで広く提唱した。
次いで、山田がその画業に惚れ込んでいた郷土の画家、寺松国太郎(洋画・日本画)、木村丈夫(日本画)、河原修平(洋画)の遺作を、まとまった形で保存し、いずれは公開してほしいという遺族の願いに応じて譲り受ける。これは単に絵を譲り受けたというよりは、画家とその家族の夢をバトンタッチされ、その実現を託されたことでもあった。
その後も文化財に対する情熱は途切れることなく、平成3年には、良寛が円通寺(倉敷市玉島)時代によく立ち寄っていた玉島の紙問屋の子孫が秘蔵していた良寛自筆の書を入手。これは、良寛研究において、「良寛の玉島修行時代(40才以前)の作品はない」とする通説を覆す一大発見となる。
山田は「生涯をかけて蒐集してきた文化財も、個人として秘蔵していたのでは“死蔵”になってしまい、文化財の散逸の恐れもある。文化財は財団法人を設立し、美術館において保存、長く後世に伝えるとともに、広く一般に公開すべきであり、その実現こそが自身のライフワークである」と考え、昭和50年代より20数年間、「良寛・寂厳記念館(仮称)」の構想をあたためる。しかし、志半ばにして、平成12年10月19日に満86才で病没する。