熱血を注ぐ「きび美」の文化講座

 私は四十数年という長い間、実物の文化財と一時も離れることはなく、しかも岡山の、吉備の文化の超一級品と対話し続けてきました。それは何にも代えがたい学校教育以後の自己形成上の貴重な体験教育でありました。何せ「吉備」は日本の中で、最も先進性と柔軟性と「グローカル」な、これからの日本が必要とする哲学を持っているのですから。

 私も最初はそれらの無口な文化財と話を交わす術を全く知りませんでした。最初の頃は沈黙が続いたことを覚えています。博物館の収蔵庫に収まっている文化財は真っ暗な中で、収蔵品同士はきっと喋っていると思うのですが、黙っている文化財に対して、「私とは何故喋ってくれないのか」、なかなか会話してくれないと内心焦っていました。人間同士だと話しかければ返事や思いが伝わってきます。

  文化財には無形文化財というジャンルがあって、その人達と話すと、日頃寡黙な彼らでもこちらがひとたび尋ねると、もの凄く雄弁に誇らしげに話してくれるのが常であり、彼らはお喋りなんだと知りました。彼ら一人一人の「伝統の技」を極めたりする努力話を聞いていくと、こちらも全く知らない知識に驚くし、彼らは例外なくざっくばらんに彼らが得た知識を惜しげも無く披露してくれました。質問すればどの様なことにも即座に答えてくれました。お互いに時間の経つのを忘れて、彼らから発する声と、大昔の技を恐ろしいほど習得した宝物を巧みに何でも披露してくれました。質問しなくても、奥義を教えてもくれました。

 私は彼らを通して昔の技術のレベルの高さに触れて心が震えました。これを重ねていくうちに、知らなかった世界のことを皆に伝える義務があるとますます思い、展覧会を企画したり、知られざる事実を研究報告書として記録していきました。

 最初に私が暗い収蔵庫の中で感じていた文化財はこうして耀き、しゃべり始めました。こちらが質問を投げかけないから喋らないだけであることを知った時、本当にうかつさに愕然としました。

 文化財には、役割を終えて「安堵の優しい顔」と、「これからもう一働きするぞ、おまえもついてこい」と、やる気満々の顔の2つがあることを私は知りました。

 展示場のガラスケースに入っている時は、役割を終えて安堵している前者の顔。収蔵庫で心ゆくまで対話しながら調べている時は後者の顔なのです。常に日本の歴史の中に居る私と文化財との対話が、時には怒濤の様な声と共に、鍬形(くわがた)を疾風で鳴らして時間も忘れて時代の中を駆け抜けて行きます。

 縁があって私の書いた岡山県立博物館研究報告第九号の研究論文『赤韋(あかかわ)(おどし)大鎧(おおよろい)の研究』がきっかけとなって国宝になった「赤韋(あかかわ)(おどし)(よろい)」を初め、岡山の超一級の文化財とはどれだけ対話したことか。公務員時代の仕事でとりわけ大きな仕事であったと思っており、一生忘れることはありません。岡山県が6億円で購入するため、私が3ケ月の間に20回も東京へ交渉に行ったのもつい昨日のことのような気がします。

 いくつか例を挙げると、国宝の太刀「山鳥(さんちょう)(もう)」もまた、一時新潟県上越市が購入しようとして、あと一歩のところで断念した時、これは太刀自身が「生まれ故郷の岡山に里帰りしたい」と云っていると私は確信的に思いました。そしてこれは今、皆の努力が通じて、晴れて里帰りができたと思っています。

  吉備の古代の技術が今日に受け継がれ、活かされている例をお話ししますと、ドーバー海峡に陸上部も含めて50kmのトンネルを掘削したトンネルマシンの刃物を作ったのは岡山の企業でした。岡山らしく刀剣技術を使って作った、硬くても粘りのある超硬合金が使われました。50kmのトンネルを貫通させた後、刃先を見たら全く欠けておらず、別にもう一本は掘削できるほどのゆとりの耐久性があったいうのです。先代社長曰く、これは企業秘密であるとしながらも、日本刀からヒントを得たとだけは本に書いてありました。

 また原始古代には金環(きんかん)と呼ばれる耳飾りがありますが、これは金箔を張って輝かせたのではなく、イオン蒸着メッキで作った金銅品です。これはまず水銀と金の液体の合金を作ってそれを銅細工製品に塗り、その後熱風を掛けると、水銀が蒸発し、銅の耳飾りに金が蒸着して金色に輝く耳飾りが生まれるのです。

 実は電子顕微鏡はその古代の原理を応用して生まれたものです。そして日本が技術的には最先端を走っています。真空下で金のイオンを蒸発させると、如何に細かいものとか、細菌の(しわ)の隙間であろうと、金はイオン化できる金属の中では一番微細であるために、どんなに奥深くでも入り込み、その金メッキされた「影」を見るという原理を使い、原始古代のイオン蒸着鍍金(ときん)技術を応用したものです。先へ行くだけが最先端や発見では無いのです。ヒントは何処にでも転がっていると思えば、過去の方が新しいことが見つかる確率は高いかも知れません。

 上記は一例ですが、きび美の文化講座でお話しする私の内容はこのような日本初の実象を含めて多岐にわたります。優れた岡山の文化財を出来るだけ沢山登場させて、感動とわくわくするような学びへのサポート役を果たしたいと思っています。題材は日本の文化財と関係するとか、そのルーツが海外にある事例など、無限に投げかけますので是非ご一緒に頑張ってみませんか。


臼井洋輔(うすい ようすけ)略歴
1942年 岡山県玉野市生まれ。岡山大学法文学部卒業。同大学院博士課程修了。岡山大学文学博士。岡山県立博物館学芸員、岡山県教育庁文化課課長代理、岡山県立博物館副館長を経て2013年まで吉備国際大学文化財学部教授。この間、同大学文化財総合研究センター長、同大学図書館館長、岡山大学・福山大学・岡山県立大学・倉敷芸術科学大学等の非常勤講師を歴任。日本考古学協会会員。「文化庁令和3年度地域文化功労者表彰」受賞。著書に『時代の変転が工芸に及ぼす影響についての研究』(岡山大学博士課程学位論文)、『バタン漂流記』(叢文社)、『一遍上聖絵・福岡市の市解析』(文化財情報学第7巻 吉備国際大学文化財総合研究センター)、『岡山の文化財』(文化財イソップ物語 吉備人出版)など。